むかわのあけぼの

 北海道にヒトが住み始めたのは、今から2~3万年くらい前の出来事であると考えられています。黒曜石、安山岩、ホルンフェルスなどの、割れると鋭利な破片ができる岩石を加工して鎗先やナイフを作り、獲物を狩っていた時代で、旧石器時代と呼ばれています。

 最終氷期(ヴュルム氷期)の最中にあって、地球両極の海域や大陸に分厚い氷が発達(北米大陸の北部では厚さ3km)して、海水面が著しく低下したため、北海道では、宗谷海峡付近でユーラシア大陸とつながっていたと考えられています。

 2万年前~1万2千年前になると、ユーラシア大陸のシベリアから陸路、サハリン(樺太)を通って、細石刃とよばれる石器を作る技術が北海道に伝わります。北海道の細石刃は、天然のガラスである黒曜石を器用に割って、カミソリのように鋭く小さな刃の形に加工したものです。木や骨で作った柄に細石刃を埋め込み、ナイフや鎗先として使っていたと考えられています。

 その後、徐々に気温があがり、1万6千年前を頃には西日本でカシやシイなどの照葉樹が登場したようです。この時期は、旧石器時代と縄文時代の端境の時期にあたります。むかわ町のおとなりの厚真町では、上幌内モイ遺跡から、1万4500年前のヒトが生活した痕跡と細石刃が発見されています。知内町の湯の里4遺跡では日本最古の土壙墓(お墓)が発見されています。帯広市の大正3遺跡では北海道最古の土器といわれる、縄文時代草創期の爪形文土器が発見されています。道内各地にヒトが生活した痕跡が増えてゆくのが、この時期の特徴です。むかわ町内では、まだ、旧石器時代の遺跡は発見されておりません。

   むかわ町内で最古と考えられるヒトが生活した痕跡は、二宮遺跡から出土した縄文土器があります。9000年前~8000年前に作られた、縄文時代早期の土器です。土器の底にホタテ貝を押しつけて貝の表面の凹凸をプリントした特徴的な文様があります。むかわ町二宮の髙田稔さんが発見しました。
    

 二宮遺跡出土の縄文土器(暁式土器)

 土器の底に残るホタテ貝の殻の圧痕

 

 

 温暖化による海水面の上昇が進むにつれて、陸地の奥深くまで海が入り込み(縄文海進)、むかわ町内では、下流域の大半は海の底にあったと推定されます。そして、6500年前~6000年前に海進がピークを迎え、海水面が100m以上上昇(現在はピークよりも5m程度低い)します。平均気温は、現在よりも1~2度前後高かったと推定されており、温暖な気候を背景として、全国的に人口が増加したと考えられています。その後、海の水が退いてゆき(海退)、ふたたび長い時間をかけて、現在の海岸線が形成されていきました。

 むかわ町内では、縄文時代の前期~中期、だいたい7000年前~4000年前にかけて、数多くの遺跡が残されました。汐見の柏山遺跡は、試掘調査の結果、青森県の三内丸山遺跡などで特徴的な盛土遺構をともなう遺跡で、現在のところ町内最大の縄文遺跡であると考えられています。

 

 柏山遺跡の試掘調査風景(平成24年)

 遺跡から発掘された縄文時代の竪穴住居跡(米原4遺跡)

 
  縄文時代の人々は、地面を掘りくぼめて作った土間の上に、クリやカツラなどの広葉樹の柱を立て梁を渡し、木や草などの植物材料で作った屋根をかけ土をかぶせて、家(竪穴住居)を作りました。

 海や川では魚釣りや銛漁にはげみ、丸木舟に乗って簡単な網漁も取り組んでいたようです。山では弓矢を使って野鳥を仕留め、時には、チームワークを活かして、シカなどの俊敏な動物を落とし穴に誘い込み捕獲しました。黒曜石で作ったナイフは、獲物の肉を切り分けるのに役立ちました。動物の骨で作った針は、毛皮や植物の繊維で作った布を縫い合わせ、服を作るのに役だったことでしょう。植物の茎や皮で編んだカゴをもって山菜や果実を収穫し、副食用としてヤブマメやクリなどの栽培も行われていたようです。

 土器も盛んに作られました。土器全体に縄目をプリントした文様が特徴的なので、縄文土器と呼ばれます。土器は、収穫物を煮込むために使われていたようです。
    

  縄文中期 柏木川式土器(宮戸4遺跡出土品)

     

  矢じりやナイフなど石器各種(宮戸4遺跡出土品)

         

 美しく磨き上げられた石斧(穂別出土品)     

    

 装飾品 勾玉とヒスイ玉(宮戸出土品)

  
    
 汐見、宮戸、米原の高台では、100基以上の縄文時代の落とし穴が、発掘調査によって発見されています。また、穂別でも土器や石器の破片が多量に発見されています。細かい黒曜石のチップは、大昔の人々が頑張って石器づくりをした痕跡とも考えられます。自然の恵み豊かな鵡川や穂別川の水系を中心として、積極的な活動が行われていたのでしょう。

 

 

 発掘された縄文時代の落とし穴(宮戸4遺跡)

    

    黒曜石のかけら(穂別出土品)

         

 3000年前~2000年前ごろになると、次第に気温が下がり、再び寒冷化の波が押し寄せます。

 狩猟、漁撈、採取、そして補助的な農耕だけでは食料不足をカバーしきれず、全国的に人口が減少したと考えられています。北海道に、東北地方の亀ヶ岡式土器文化が伝わり、渦巻きや曲線を主体とする複雑な模様のある薄手の土器が流行しました。

 穂別では、旭川の神居古潭などでよく見られる、硬くて緻密な黒色変成岩を加工した玉や石刀、石棒など、呪術の儀式で使われたと推定される特徴的な道具が発見されています。穂別中学校の側道拡幅工事に先立ち実施した発掘調査(穂別D遺跡)では、縄文時代後期の玉や、棍棒形石器が発見されています。

 

 

 石刀(穂別出土品)

              

 石棒(穂別出土品)

         

  玉類(穂別D遺跡出土品)          

         

 穂別D遺跡発掘調査風景(平成19年)

         

 棍棒形石器(穂別D遺跡出土品)

          

 

 

鵡川盛土墳墓群とむかわの続縄文文化(紀元前3世紀ごろ~紀元後7世紀ごろ)

 

 縄文時代の終わりに近づく頃、大陸から北九州地方に稲作が伝わります。稲作は少しずつ列島の東へと進み、弥生時代が始まる頃には青森県へ到達します。北海道では、この時期の水田跡が発見されていません。自然環境が厳しく、農業技術も未熟であった当時の北海道の社会では、稲作は難しかったと考えられています。

 北海道では、縄文時代と同じような狩猟、漁撈、採取中心の生活が続いていたと考えられ、本州と同じ弥生時代ではなく、続縄文時代と呼び区別しています。

 むかわ町内では、汐見の鵡川盛土墳墓群(旧 汐見遺跡)に、続縄文時代初期の集団墓地の痕跡が残されました。昭和38年4月、北海道大学の大場利夫教授を中心とするチームが発掘調査を実施したところ、遺跡から発見した墓跡は、地面に穴を掘って1人ずつ埋葬したお墓で、続縄文土器や玉がそえられていました。発掘調査の結果、この遺跡の学術的な重要性が評価され、昭和41年7月7日に鵡川盛土墳墓群として、北海道の文化財に指定されました。
    

 鵡川盛土墳墓群所在地の風景

         

 鵡川盛土墳墓群の発掘調査風景(汐見)   

           

 発掘された続縄文時代の墓穴(鵡川盛土墳墓群)

 

 続縄文土器(鵡川盛土墳墓)

 

 平玉と管玉(鵡川盛土墳墓群)             

 

 

 3世紀頃、北海道と本州の間で積極的な交流があったようで、北海道の後北C2-D式土器と呼ばれる特徴的な土器が、津軽海峡を越えて、新潟県の中越地方あたりの遺跡から発見されています。本州では古墳時代が始まります。北海道では古墳が発見されていないため、もうしばらく続縄文時代が続きます。むかわ町内では、穂別で3世紀頃から7世紀頃に作られた土器の破片が発見されていますが、町内ではこの時期の遺跡で本格的に発掘調査をした事例がほとんどないため、どのような活動があったのか詳しいところはわかっていません。

 

 

    続縄文土器(穂別出土品)

         

 

 

むかわの擦文文化(7世紀ごろ~13世紀頃)

 

 8世紀頃、再び温暖化を迎えます。東北地方から北海道へ来た移住者が、札幌、恵庭、千歳、江別などの道央部に進出し、北海道式古墳と呼ばれる小さな円形の塚が築かれました。北海道式古墳は、古墳時代の古墳ではないため、古墳時代には含まれません。むかわ町内では、汐見の鵡川盛土墳墓群から、北海道式古墳が2基発見されています。 1号墳では、奈良時代の方頭大刀が出土しています。この刀は、刀身から持ち手まで一本の鉄で造られており、東北地方で流行した蕨手刀と、朝廷で広く用いられた直刀のハイブリッド型と考えられています。
    

 北海道式古墳(江別市の事例)

 参考写真 江別市郷土資料館提供

 

    

 方頭大刀(鵡川盛土墳墓群出土品)

      
    
  
 東北地方からの移住者は、故郷で使った土器と同じ様式の土器を北海道でも使っていたようです。須恵器と土師器と呼ばれる土器で、特に素焼きの土師器は北海道の続縄文土器の形に変化を与えました。7世紀頃には、縄文時代から続いてきた伝統の縄目文様をやめて、土師器の影響を受けた擦文土器の使用がはじまります。北海道では、7世紀頃から12~13世紀頃まで擦文土器を使っていましたので、本州の飛鳥時代~奈良時代~平安時代の時代のながれとは分けて、擦文時代または擦文文化期と呼ばれます。

 

 この頃、町内各地に擦文文化期の集落が営まれました。当時の住居は、ほとんど地面の下に埋もれてしまいましたが、地表面に窪みが残っていることがあるので、場所によっては現在でも竪穴の窪みを見学する事ができます。穂別の新興、豊田、和泉、中村記念公園などで、竪穴住居跡の窪みが発見されています。穂別中学校の側道を拡張工事した時、発掘調査で竪穴住居跡が発見されました。また、穂別では、須恵器の破片も発見されています。須恵器は、山の斜面を掘り込んで作る半地下式の登窯で焼いた土器です。1000度以上の高温で焼き締めるため、硬く緻密で水漏れが少なく、杯や皿などの食器、液体を入れる甕壷などの種類があります。須恵器は、もともと朝鮮半島から九州を経由して、畿内の大和朝廷に伝わった技術です。平安時代には、青森県の五所川原などで須恵器が盛んに製造され、北海道に運び込まれました。
    

 発掘された擦文文化期の竪穴住居跡(穂別D遺跡)

 

 擦文土器(穂別D遺跡出土品)

 

 

 須恵器の破片(穂別出土品)