「むかわ」の語源

 「むかわ」は、ムカぺッ(塞がる川)や、ムカップ(ツルニンジンの生えているところ)など、鵡川の河口で観察できる自然の姿を、アイヌ語で表現した言葉だと考えられています。

 現在使われている「鵡川」は、明治以降に表記されるようになった漢字です。明治以前は「武川」「武加和」「六川」「牟川」「ム川」などの字を当てていました。仮名文字で「ムカワ」「ムカハ」と表記される事例もあり、いずれも「むかわ」と発音していたようです。鵡川の支流である穂別川は、アイヌ語のポンぺッ(子どもの川)に由来します。このほか、鵡川上流の占冠(しむかっぷ:大いなるムカワ)や、トマム(苫鵡、とまむ:湿地や沼沢地のこと)などがあります。

 鵡川河口の空中写真(平成30年むかわ町)

 

 

 

奥州藤原氏の残党が移住した陬川(ムカワ)伝説 

 17世紀頃に成立した松前藩の歴史書『新羅之記録』には、中世のむかわに関する伝説が記録されています。

 昔、この国では、上りに二十日程、下りに二十日程かかり、松前から東は陬川(むかわ)まで、西は輿依地(よいち)まで人が住んでいた。右大将源頼朝卿が、奥州平泉へ出兵して藤原泰衡を追討した時、糠部津軽より多くの人々がこの国に逃げ渡り居住した。彼らは、薙刀を舟ばたに結び付け、櫓櫂にして漕ぎ渡ったので、昔、この国の舟の車櫂(オール)は、薙刀の形をしていたという。奥狄の舟は、近頃まで、櫂を薙刀の形に作っていた。彼らは末裔となって、奥地に住んでいる。     ※参考文献『現代語訳新羅之記録』(無明舎出版)

 

 この伝説は、鎌倉時代の文治5(1189)年7月から9月にかけて行われた、鎌倉幕府と奥州藤原氏の戦いを題材としています。福山から太平洋側の鵡川まで舟で行くと片道20日程(往復40日程)、また、福山から日本海側の余市へ行っても片道20日程(往復40日程)かかり、海岸沿いには内地から北海道へ来た人々が村を作って居住していた様子が伝えられています。

 中世の鵡川に関わる資料は非常に少なく、また、本格的な遺跡の発掘調査の事例もありません。おとなり厚真町の遺跡では、12世紀代と位置付けられる常滑焼の壷や秋草双鳥鏡などが発見されており、また、太平洋側の余市でも、余市川の河口で発見された大川遺跡から、青磁や白磁、古瀬戸、珠洲、漆器など、鎌倉時代後期~室町時代の和産物が発見されています。余市や厚真の遺跡で発見された和産物は、アイヌ民族と内地の和人が交易をして北海道にもたらされた、と考えられています。

 松前からの鵡川・余市まで

 

アイヌ民族のチャシ跡が築かれる

 13世紀頃、穂別にアイヌ民族のチャシが登場します。中村記念公園にあるニサナイチャシ跡は、厚真町のヲチャラセナイチャシ跡とともに、北海道のチャシのなかでは比較的古い時期に位置づけられるチャシ跡です。

 チャシは、山の上に築かれたアイヌ民族の古い聖域であると考えられています。空壕を掘りめぐらした山城のような外観のものが多く、空壕がなくても、高山の頂きをチャシと呼ぶ事例があります。チャシは山上にある神様をお祀りする場所で、大昔は実際に山の頂上まで登っていたはずだが、なにか理由があって次第に村の近くに作られるようになったのではないか、という学説もあります。また、古い伝承によると、チャシは戦争時に立てこもる砦、談判をする場所、宝物を保管する場所、緊急時に避難する場所、食料の獲得に関わる場所、侵入者を監視する場所、神がかった力をもつ英雄の住居など、地域によっていろいろないいつたえがあります。

 14世紀から17世紀にかけて、寒冷化による自然環境の変化や北海道以外の地域との新しい交流関係が進み、全道的にアイヌ民族のチャシが築かれてゆき、18世紀頃にはチャシを築く文化が終焉を迎えたと考えられます。鵡川流域では、18か所(鵡川1か所、穂別17か所)のチャシ跡が発見されています。

 

 ニサナイチャシ跡(穂別)


 チチャップチャシ跡(穂別豊田(新興))


  
  

コシャマインの戦いと鵡川  

 康正二(1456)年、道南地方の志濃里で、鍛冶屋が作ったマキリの出来具合をめぐり、和人とアイヌの間で激しい口論の

末、アイヌ側に死者を出してしまうという事件がおこりました。

 この事件は収まりがつかず、翌年の康正三(1457)年には戦争に発展してしまいます。最初に事件が起きた志濃里(現在の函館市志海苔付近)に住む小林良景の館が戦場となり、松前から東西数十日の範囲にある各地の和人の村々でも戦いが行われ、道南十二館と呼ばれた領主層の拠点も次々と陥落してゆきます。生き残った人々は、上ノ国の花沢館(現在の上ノ国町にある史跡花沢館)と茂別館(現在の北斗市にある史跡茂別館)に集まりました。

 アイヌ側の指導者コシャマインは、花沢館の客将 武田信広が放った弓の攻撃で打ち取られ、戦いは和人側の勝利に終わります。武田信広は、花沢館の主将であった蠣崎家の娘を迎えて蠣崎姓を名乗り、近世松前藩の礎を築きます。信広の子の光広は、安藤氏配下の間で争いに勝利して、永正十一(1514)年に松前大館へ拠点を移しました。

 16世紀に入ると再び和人とアイヌの争いが繰り返されるようになりました。そうして和睦と交渉を繰り返した末に、蠣崎季広(5代当主)のとき、主家である安東氏の仲介を得て、東のリーダー チコモタインや、西のリーダー ハシタインらとの和睦を進め、天の川~知内川よりも南を和人の居住地とすることで争いをおさめました。
    

 史跡志苔館跡