交易に力を入れたむかわのアイヌ民族
慶長四(1599)年、蠣崎慶広(6代当主)が徳川家康に服属したことで、正式に島主としての支配権を認められました。蠣崎から松前へ姓を改め、慶長九(1604)年には、家康からの黒印状を受けて支配を固めます。内地の者が勝手に北海道へ来てアイヌ民族と交易することは許されないことになり、松前家はアイヌ民族との交易を事実上独占することができるようになりました。しかし、アイヌ民族の社会でおきた問題に松前家が介入することは認められず、また、アイヌ民族が松前以外の土地へ自由に往来することを制限することもできませんでした。
1618年頃、イエズス会のイタリア人宣教師ジローラモ・デ・アンジェリスが北海道の松前に滞在し、現地の人々から話しを聞いて北海道の土地や産物に関する情報を調査していました。アンジェリスが本国へ提出した報告書には、交易をするために全道からアイヌ民族が松前に集まっていた様子が記録されています。
アイヌ民族は、鹿や熊の毛皮、鷲羽、鮭、昆布などを舟に積み込んで松前へ行き、松前では武士や商人達が、鉄製品、漆器、米、木綿などを用意していました。交易のやり方は物々交換であったといわれています。特に、道東のアイヌ民族が用意したラッコの毛皮は大変人気のある商品でした。交易品を中継することで松前の財政が潤い、その一方で、アイヌ民族は自分達の社会では製造できない必需品を入手していたのです。『穂別町史』には、若い夫婦が松前で交易をして豊かになり大きな家を建てた、という主旨の伝承が紹介されており、むかわのアイヌ民族も、家族や村の発展のために交易品を携え松前へ出向いた様子がうかがわれます。
松前家では、アイヌ民族と交易する場所を道内各地に設置し、家臣達に所領を預ける代わりに場所を割当てていました。松前の家臣達が舟に交易品を積み込み、アイヌ民族の居住地まで直接交易をしに行くこともありました。日本海側では慶長年間に天塩まで、太平洋側では寛文年間に厚岸まで、知行主(場所を預かった武士)の家臣とアイヌ民族が交易をする場所の開設が進みました。
むかわでは、鵡川場所として2人の知行主がおり、場所の境は明確ではありませんが、下流域の下ムカワと、上流域の上ムカワが設定されていました。上ムカワは、穂別を中心とする地域を指していると思われ、松前家臣の麓家による世襲が続きました。また、下ムカワは浜を中心とした下流域一帯を指していると思われ、たびたび知行主が変わりました。
鷹の捕獲や砂金掘りも、大きな収入になりました。鷹を捕まえる場所を鳥屋と呼びます。元禄一三(1700)年頃には、むかわにも2カ所の鳥屋が開かれ、鷹打(鷹を捕まえる作業者)がむかわに集まりました。また、砂金掘りを専門とする金掘もあらわれ、鷹打とあわせて松前藩の財政を支えました。しかし、鷹打はアイヌ民族の狩場を荒し、川で砂金を掘る金掘も、アイヌ民族の漁業活動の妨げに繋がりました。
交易のあり方にも変化が訪れます。次第に、松前藩のみと交易をするよう強いられるようになり、17世紀のなかばには交換比率の一方的な変更が行われました。干鮭5束(100匹)に対し米1俵(2斗入り約30kg)の交換比率から米1俵(8升入り約12kg)にまで下落するなどあり、アイヌ民族にとって不利な状況が続きました。
シャクシャインの戦いとむかわ
慶安元(1648)年頃、シビチャリ川(静内川)の上流に住むアイヌ民族の集団と、河口に住むアイヌ民族の集団の間で、食料の獲得争いがたびたびおこるようになりました。上流側のオニビシは、シュムクル(西の人)と呼ばれる集団のリーダーで、新冠を中心に千歳あたりまで影響力を持っていました。また下流側のカモクインは、メナシクル(東の人)と呼ばれる集団のリーダーで、松前藩から一目置かれた存在でした。大勢のアイヌを味方につけたオニビシによってカモクタインが倒されると、一角の人物であったシャクシャインが後継者に選ばれました。オニビシとシャクシャインの争いは、一旦、松前藩の仲介で講和することになりますが、その後も争いは繰り返され、寛文八(1668)年頃、シャクシャインが金掘の文四郎と謀りオニビシを倒すと、再び両集団の争いが激化しました。
この頃、松前藩に運上金を支払い金堀や鷹打などの仕事をする和人が、北海道の奥地まで入り込んでいました。彼らは、現地のアイヌ民族と積極的に関与しており、、シャクシャインは、娘婿として越後の庄太夫という鷹打が味方をし、また、オニビシにも、松前藩とのパイプ役として、金堀文四郎が積極的に関わっていました。
リーダーを失い劣勢となったオニビシ側は、松前藩に再三の支援を要請しますが断られ、松前からの帰路に使者が急死してしまいます。事件は、松前藩に毒を盛られたという話に発展し、シャクシャインが松前藩との争いを終結させるために立ち上がりました。
寛文九(1669)年六月、シャクシャインは、道南地方のアイヌ民族の多くを味方につけ、八月には長万部の国縫川で決戦に臨みましたが、鉄砲を装備した松前軍に初戦で負けてしまいます。その後、松前軍は、太平洋の沿岸を進み、各地でアイヌ民族と戦いながら、シャクシャインの住むシベチャリ(静内)を目指しました。むかわの河口でも戦いが行われています。十月、和睦に応じ武装を解いたシャクシャインは、ピポク(新冠)で松前軍に捕らえられ殺害されました。
シャクシャインの戦いが終わった翌年、日本海側でも松前藩とアイヌ民族の戦いが行われましたが、最終的に松前藩にとって有利な条件で戦いは終わりました。この頃、アイヌ社会では、シャクシャインのような大勢力を指導するアイヌ民族のリーダーが何人も登場していました。しかし、争いの結果、和人社会がアイヌ社会を押さえ込む形が進み、道南~道央地方のアイヌ民族は、少しずつ松前藩の支配下に組み込まれて行きました。
史跡シベチャリチャシ跡(新ひだか町)からの眺望
※新ひだか町 シベチャリチャシ跡はシャクシャインの城跡であったとも伝えられます
鮭漁や山猟で賑わうむかわ
松前藩と地元むかわのアイヌ民族が直接取引をする場所として、上ムカワ(穂別を中心とする地域一帯)と下ムカワ(浜~下流域一帯)が設定されていましたが、18世紀以降、砂金の採掘と鷹の捕獲などにかわり、漁業を中心とした海産物の取引が中心となってゆきます。
18世紀頃、勇払から千歳にかかる16ヵ所の場所をあわせたシコツ場所(後のユウフツ場所)があり、むかわはこの中に含まれていました。松前藩では、知行主の武士が現地のアイヌ民族と取引する権利を商人に貸し与えることで運上金を取り、現地で行われる商品の生産活動を含めて商人に一任するようになりました。むかわでの生産物は、干鮭、鹿皮、品縄、昆布、秋味などが主力でした。天明六(1786)年頃、上ムカワは麓 善六郎が30両の運上金で萬屋新兵衛と契約、また下ムカワでは佐藤東馬が35両の運上金で大城屋忠兵衛と契約しており、むかわの運上金はシコツ場所のなかで最も高く、すぐれた生産地であった様子がうかがわれます。商人側は、支配人や番人を派遣して現地に拠点を築き、次第に労働力としてアイヌ民族を浜に集めて、大規模な経営に乗り出す者もあらわれました。
シコツ一六場所 (『穂別町史』より転載)
クナシリメナシの戦い
松前藩は、森林資源獲得のため、18世紀頃から商人 飛騨屋久兵衛(武川久兵衛)に檜山での林業を任せていました。飛騨屋の経営は4代に渡り、資金不足の松前藩は飛騨屋から借財を重ねていました。返済のあてとして、飛騨屋は国後根室一帯で商売をする権利を獲得しましたが、この地域には強力なアイヌ民族のリーダーが何人も存在し、彼らが黒テンやラッコの毛皮を求めて頻繁に来航するロシア人と協力関係にあったこともあり、飛騨屋の経営はなかなか成果が上がりませんでした。飛騨屋側では、現地のアイヌ民族に対し漁場での過酷な労働を課し、さらに、アイヌ民族の労働者やその家族に対する出稼人のたび重なる横暴な振る舞いが、深刻な社会問題をひきおこしました。
そうして、寛政元(1789)年五月、クナシリ島のアイヌ民族が決起して、飛騨屋の関係者を襲撃する事件がおこると、この動きに呼応して標津でも争いがおこり、71人の和人が殺害されました。
事態を重く見た松前藩は、鉄砲や大筒を装備した藩士を中心とする鎮圧隊を組織します。鎮圧隊は、根室のノッカマップに到着すると、地域のアイヌ民族のリーダー3人に事情聴取を任せ、37人を現地で処刑しました。この戦いは、根室地方以外のアイヌ民族の社会にも強い影響を残したといわれており、『穂別町史』に次のような伝承が紹介されています。
【シュマコッネの蛇神伝説】
昔、クナシリの乱があったとき、胆振地方のアイヌの代表者を勇払に集めて釣り天井で殺害したことがあった。ニワンの人達が、シュマコッネ(旭岡駅の対岸あたり)までくると、大蛇が川の中から現れて舟に襲いかかり、どうしても通ることができなかったので、ニワンの人達は釣り天井の難を逃れた。祭の時に蛇神にも酒を上げたという。ルベシベより上流の人達も、川をくだると急にルベシベのところの山の嶺が川の中にせり出して舟が通れず、この人々も助かったので、その嶺に感謝の酒を捧げている。※『穂別町史』より
蝦夷地の直轄化と勇払場所の成立
18世紀頃、高級品である黒テンやラッコの毛皮を求めて、ロシア船が北海道や千島の沿岸に上陸し、現地住民と頻繁に交流するようになっていました。そして、18世紀の末には、ロシアの使節ラクスマンが根室に来て国交を求めたり、イギリス船プロビデンス号が太平洋沿岸を探険するなどあり、対外的な緊張関係から国防の必要性を痛感した幕府は、寛政一〇(1798)年に、蝦夷地(北海道)の本格的な調査に乗り出し、蝦夷地の経営に幕府が積極的に関わる方向性に変わってゆきました。
寛政一一(1799)年、幕府は松前藩から東蝦夷地(北海道太平洋側)を取り上げ、さらに、文化四(1807)年には、西蝦夷地(北海道日本海側)も幕府領となります。松前藩は、陸奥国の梁川(現在の福島県伊達市梁川町付近)へ転封となり、松前藩の本拠地であった福山には幕府の奉行所が開かれました。また、蝦夷地の警備にあたり、東北地方の有力藩にも要請がなされ、東蝦夷地は南部藩、西蝦夷地は津軽藩が、それぞれ担当して警備することとなりました。
むかわは、シコツ一六場所に含まれていましたが、幕府による直轄化にともない、ユウフツに会所を置き、ユウフツ場所として一体的に管理することになりました。それまで、ムカワ場所での取引は、契約者の商人が、ムカワを知行する松前藩士に運上金を支払っていましたが、松前藩が移動した後は、幕府が契約関係を引き継ぎました。幕末の探検家 松浦武四郎の著作物には、鵡川流域にたくさんのアイヌ民族の村(コタン)があったことが記録されています。武四郎がコタンで出会った人々は老人や子どもが多く、若い人や元気な人の多くは出稼ぎに行っていて不在であったようです。漁場での労働等に従事した様子がうかがわれます。
「東蝦夷地ユウフツ場所之図」からムカワ部分を抜粋
八王子千人同心隊の移住と鵡川畑作場
寛政一一(1799)年三月、八王子千人同心の原半左衛門胤敦(寛政二(1749)年~文政一〇(1827)年)が北方警備と開拓をこころざし、幕府に蝦夷地への移住を願い出ました。原半左衛門は、八王子周辺を拠点とする千人同心の千人頭です。自身も100人規模の隊士を抱える組頭の1人として原組を組織していました。
八王子千人同心は、本来、甲斐の武田家に仕える武士でした。武田家が織田家に滅ぼされた後、元武田家臣であった大久保長安の誘いに応じて徳川家に仕えました。当初は、後北条氏から奪取した八王子城の警備にあたっていましたが、徳川家康による江戸の町づくりが始まる頃、八王子城を廃して八王子宿に移り、甲州から江戸へはいる入り口にあたる八王子とその周辺の警備を担うようになりました。のちに、隊の代表者には特別に江戸城内の詰め席が用意され、さらに、日光東照宮や江戸城下の警備も任されるようになりました。
同心達の屋敷が立ち並んだ場所は、いまでも千人町と呼ばれています。八王子は、組頭10人、配下の同心100人からなる千人同心達の主力が居住する場所で、大半の隊士達は八王子の近郷に配置されていました。原家は、初代胤歳が武田家に仕えており、二代胤従の時に「御長柄支配」として長槍を使う軍隊を預かり八王子に移住します。原家は、八王子に本拠を置きましたが、もともと上総国の原家の出自であり、将軍の旗本扱いでもあったことから、八王子に移住した後も年貢収入を主に上総国の知行(所領)から得ていたようです。
一〇代胤敦の時、蝦夷地御用を命じられ、寛政一二(1800)年一月に原半左衛門胤敦一行100人が江戸を出発しました。一行のうち50人が勇払に拠点を置き、胤敦ら主力は南部藩の警備を補うために目的地の白糠で任務にあたりました。隊士達は、生活に必要なものはすべて、自分たちで調達をする必要がありました。弟の新介は、勇払に残った隊士達を取りまとめ、勇払よりも鵡川のほうが土地が肥えていて農業に適していたことから、鵡川の河口に八王子千人同心の畑作場を開きました。同心達は、汐見に13軒ほどの屋敷を建てて開墾に従事しながら、地元、汐見のアイヌ民族と交流をしていたようです。幕末の探検家 松浦武四郎も、チンやイモッペに住むアイヌ民族が精力的に畑作をしていた事を記録に残しています。
むかわ町汐見の冬枯れの風景
隊士達は屋敷を建て畑を開こうとしますが、なかなか思うように進みません。江戸へ増員を求めますが、北海道の厳しい自然環境のことや、隊士たちの暮らしぶりがよくないことが影響したためか、享和元(1801)年に勇払へきた第2陣は30人にとどまりました。
勇払や鵡川で行われた八王子千人同心の開拓事業は、極寒のため勇払で死者16人が出るなど困難を極め、文化元(1804)年に中止となりました。隊士達は、幕府の奉行所がある函館へと移り、残りたい者には地役御雇として、引き続き現地での滞在を認めました。蝦夷地で活躍した130人のうち、冬場の寒さや野菜不足による壊血病による死者32人、残留者は函館9人、白糠26人、鵡川43人、山越内1人、帰国者19人と伝えられています。原半左衛門胤敦は、函館での任務を終えて江戸へ戻り、千人同心の塩野適斎らとともに大著『新編武蔵国風土記稿』の編纂に携わりました。墓所は、東京都八王子市上野の本立寺にあります。